ロックミュージックとテクノロジーは互いに影響を与えつつ今日に至った。1960年代から現在まで活躍を続けている伝説的ミュージシャンはコロナ禍に立ち向かうためのライブストリーミングを主催した。
伝説のジャーマンロックバンドに在籍し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコの最後のパートナーとしても知られ、半世紀以上、音楽界で活躍を続けるルッツ・グラフ・ウルブリッヒ氏にドイツ在住の著者がインタビューした。
ロックダウン解除、とはいえ、ドイツ・ベルリンでも大きなホールでのコンサート・演劇公演は禁止された状況が依然として続いている。さて、6月13日、ドイツ・ベルリンの比較的大きなホール、ウーファ・ファブリックから「バーデナーレ」と称するライブストリーミングが配信された。
このバーデナーレ主催者は、ルッツ・グラフ・ウルブリッヒ(公式Webページ)さん。1952年11月30日生まれで、現時点(2020年6月)で67歳のドイツ・ベルリン在住ミュージシャンだ。
このウルブリッヒ氏、なんと2013年に閉館となった東京タワーの蝋人形館に蝋(ろう)人形として並んでいたり、ルー・リードやジョン・ケイルなどロック史を語る上で欠かせない才能を輩出した伝説のロックバンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでボーカルをとったニコの最後のパートナーだったり、“テクノ・ハウスの始祖”と評価されるマニュエル・ゲッチングとアシュ・ラ・テンペルにてジャーマンロックの名作を録音していたり、90年代以降は、ベルリンの人気バンドで来日公演もした17ヒッピーズのメンバーであったりと、ロック/音楽ファンにとってとても重要な数々の歴史的事件を体験してきている人物だ。
1967年からミュージシャンとして活動を始め、半世紀以上、ミュージシャンとして生き抜いてきたウルブリッヒ氏に、今回のストリーミング企画を契機として、「コロナ禍でもミュージシャンは生き残れるのか、ITはロックを救えるのか、ポストロックダウン世界でのミュージシャンの試み」について聞いた。
――「バーデナーレ」というストリーミングを開催した意図を教えてください。
ウルブリッヒ氏 バルデナーレのアイデアは、ベルリンのソングライターたちへの好奇心から生まれました。かつて「リュールのライブラウンジ」というコンサート企画を、ベルリンのホール(BKA、Wabeなど)で行って、1回の企画につき3〜4人のシンガーソングライターを紹介していました。モデレーター役を務めることで、アーティストたちと直に話してみたかったのです。
劇場、ウーファ・ファブリックの美しい野外ステージは私の試みに最適と考え、第1回バーデナーレを企画しました。最初のバーデナーレのために、私はお気に入りのアーティストたち8組に出演を依頼し、みんな出演を快諾してくれたので幸せです。プロフェッショナルで、バラエティ、オリジナリティに富んだアーティストたちが30分間、演奏します。
コロナ禍でもミュージシャンは生き残れるのか? ITはロックを救えるのか?
――あなたは1967年から、本当に長い間、音楽を演奏しています。67年から現代にかけて、ミュージシャンを取り巻く状況は変わったと思いますか? 私は、インターネットの登場で、ライブハウスに脚を向ける人口が減っている、と思っているのですが。
ウルブリッヒ氏 17ヒッピーズで、私は過去25年間、世界中のフェスティバルやドイツのコンサートで、大勢の聴衆の前で演奏しています。まず、文句は言えません。
もちろん、67年とは対照的に、ラジオやインターネット、コンサートで、はるかに多くの音楽が流れています。競争は激しく、誰でもいつでもコンサートに行くような余裕がなくなってきています。そして確かに、一部の人々、特に若者たちはバンドを聴くよりレイブに行くことを好むのは事実です。
私は今、コロナの後、その状況がどう変化するのかについて、興味があります。過去との決定的な違いは、全てが商業的であるということです。よりプロフェッショナルではある。しかし、60年代、音楽活動は即興的で、経済面はあまり問題ではありませんでした。
今日、全てが計画的です。コンサートがスマートフォンで撮影されるので、ミスが永遠にネット上に残るので、何をするにも注意する必要があります。これは一般的に、ライブの即興性を阻害するかも知れません。
――コロナ危機を、ミュージシャンはどのように乗り越えればいいのでしょうか? ITに音楽活動を救える可能性はあるでしょうか?
ウルブリッヒ氏 それはミュージシャン全員にとって、特にライブ演奏を必要とする人々にとって、興味深い問題です。ミュージシャンとしての私の収入の大部分は、コンサートに依存しているので、私も影響を受けています。冬、部屋に閉じこもっている時は、想像力も鈍るものです。先のことは分からないけど、今はあまり気にしない。ドイツでは本当に助けになった緊急援助助成金がありましたが、これで先の全ての損失を補填できるかどうかはかなり疑問です。
しかし、素晴らしいことは、世界に送信できる作品を自宅で作成できるようになったことです。だから私はロックダウン中、自宅で「世界は止まる」という曲を作りました。妻がビデオを作成しました。全て自宅で始まり、全て専門的に行いました。これは素晴らしい機会です。
また、アジテーション・フリーのメンバーは現在、バラバラな街に暮らしているのですが、毎週1回リモート会議を行って、新しい音楽を創造しようと動いています。現代のIT技術があるからこそできることで、それは素晴らしいことだと思います!
もちろん、多くのミュージシャンが音楽を無料でオンライン配信しており、SpotifyやYouTubeなどのプラットフォームによって、失われつつある音楽の価値が、どんどん低下して行くのは、悪いことです。ミュージシャンとして生き残ることは難しい。
コロナ禍ミュージシャンの試みとしては、タンジェリン・ドリームのトーステン・クォーシュニックによるライブシリーズ「behind closed doors with..」が興味深かったです。毎週月曜日と木曜日にライブストリームを放送しており、初めは無料配信だったのですが、その後BandcampとVimeoでの有料配信になりました。これは1つの可能性であり、ロックダウンによってコンサートのない時間でも楽しかったです。
話題は伝説的な音楽シーンから現代へ
そして話題は当時の伝説的音楽シーン、そして現在に至るまでの話に及んでいった。
元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコと共に
――1967年といえば、あなたが伝説のジャーマンロックバンド「アジテーション・フリー」を結成した年ですね。私はプログレッシブロックの熱烈なファンで、レコードコレクターなのですが、80年代、アジテーション・フリーのアルバムはとても高価でした。2007年にアジテーション・フリーは来日公演を行いましたね。アシュラでも来日しました。日本の印象はどうでしたか?
ウルブリッヒ氏 日本にはいつも圧倒されますよ。ドイツと違いすぎます。完璧なオーガナイズ、時間厳守。そして、あまり会話が通じない。
日本の人々は、私たちの音楽に、とても興味を持っていました。アシュ・ラ・テンペルでの、最初の東京タワー記者会見は、私がこれまでに見た中で最大の記者会見でした。アジテーション・フリーについても多くのインタビューを受けました。ドイツ語の曲ばかりなのに、私のソロプロジェクト、リュールのLPを持っていたファンがいたのも印象的でした。東京タワーろう人形館の館長だった、常連客の藤田元さんに、本当にお世話になりました。日本のおもてなしは、本当に素晴らしいものだと感じました。
コンサートにはたくさんの日本のファンが来てくれて、素晴らしかった。いや本当に、想像していなかった。また、17ヒッピーズでの1週間の東京公演も素晴らしい経験でした。私たちは俳優・イッセー尾形さんと彼のチームに歓迎され、東京をさまざまな面から知ることができました。また、毎晩いろんなクラブで、自主的に演奏しました。
――≪さて、1973年から1988年の彼女の死まで、あなたはあのヴェルヴェット・アンダーグラウンドへの参加で有名なニコさんのパートナーでした。ニコさんとどのようにして知り合ったのですか?
ウルブリッヒ氏 1973年3月17日、パリの伝統的なオペラ=コミック座で、ニコとアジテーション・フリーの共演ライブがありました。私はニコのオーラにすっかり魅了されました。彼女のようなパフォーマンスをそれまで見たことがなく、とてもユニークで感銘を受けたのです。歌、ハーモニウム、音楽の方向性、そして彼女の神秘的な外観と美しさ。
ライブ後、共同マネジャーのアサード・デブスさんが開催したパーティーで、ニコは私を別室に誘ってくれました。
73年9月、フランスのクレルモン=フェランで行われたフェスティバルでまた共演し、ニコと親しくなりました。ニコは私をパリに連れて行ってくれました。ベルリンとパリを行き来しながら付き合っていました。
――「悪魔の申し子たち〜その歴史的集会より(原題:June 1, 1974)」というライブアルバムがあります。このアルバムを私は数えきれない回数、30年以上聴いています。このアルバムでは、あなたのパートナーのニコさんの他、ジョン・ケイル、ブライアン・イーノ、ケヴィン・エアーズというロック史に残る素晴らしい4つの個性を味わえるからです。バッキングを担当するミュージシャンは、ロバート・ワイアットやマイク・オールドフィールドなどで、何回聴いても飽きない。ニコさんとお付き合いしていた時代、こういったミュージシャンと出会う機会があったはずですが。
ウルブリッヒ氏 たしかにあれはとても素晴らしいコンサートです。しばらくして74年10月5日に、ケヴィン・エアーズ抜きで、ニコとイーノとケイルは、ベルリンの新国立美術館の「メタムジーク・フェスティバル」でその伝説的なコンサートを再現しました。最近、その録画ビデオを見直しましたよ。当時私はニコと付き合っていたので、もちろんその場にもいて、私の12弦ギターをジョン・ケイルに貸したのです。私はケイルとクアフュルステンダムのホテルで朝食のとき出会いましたが、ニコと会うことが目的だったので、少しあいさつを交わした程度です。
75年、私はアルル円形劇場でアシュ・ラ・テンペル、ニコ、カン、ケヴィン・エアーズと一緒に演奏し、数日間一緒に過ごしました。ケヴィン・エアーズとニコはあまり付き合いがなく、ニコは私たちと一緒にいることが多かったです。 ケヴィン・エアーズ は彼の隣人をステージに迎え、アコースティックな曲を演奏しました。それまで私は彼のことを全く知りませんでした。
私は75年から79年までニコのギタリストにもなりました。フランス、オランダ、スペイン、そしてアメリカとカナダをツアーしました。
その後、ニコとジョン・ケイルとさまざまなコンサートに出演しました。特に、ニューヨークのチェルシーホテルに6カ月滞在した思い出が強烈です。ケイルは非常に才能のあるミュージシャンであり、プロデューサーとしても素晴らしいレコードを生み出しています。彼はニコと一緒に、ユニークな素晴らしい作品を作りました。
――あなたは79年、パンク界で伝説となるニューヨークのライブハウス、CBGBでニコとジョン・ケイルとプレイしています。パンクが最も熱かった時代だと想像しますが。
ウルブリッヒ氏 私の最も強烈な記憶ですね、ジョン・ケイルとの共演。いくつかの曲を一緒に演奏しましたが、それは私の音楽人生のハイライトの一つです。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド再結成のようなもので、ファンはとても興奮していました。
デビッド・ボウイも聴衆の中にいました。ニューヨークはニコを愛し、舞台裏では素晴らしい出会いもありました。 ニューヨーク・ドールズのデヴィッド・ヨハンセンはニコに恋をしているようでした。私はパティ・スミスのギタリストであるレニー・ケイにも会いました。多くの興味深いバンドが演奏しているので、CBGBによく観に行きました。例えば、ザ・ザやプラズマティックスなど。 当時、クラウス・ノミもニューヨークに住んでいたので、よく見かけましたが、残念ながら彼のコンサートには行けなかった。
その後、ベルリンでジョン・ケイルに何度か会いましたが、実は私たちは本当の友達になったことがなかったのです。しかしニコの死後 91年、ニコの墓に一緒に行く機会がありました。私は彼の音楽作品を最も尊敬しています。
――その他、あなたとニコは、フォーク界の伝説、ティム・ハーディンや、ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズがバッキングを務めていたケヴィン・コインなどとも同じステージを踏んでいますね。
ウルブリッヒ氏 ティム・ハーディンには何度か会い、コンサートも一緒に行いました。とても人柄が良く、才能豊かなミュージシャン。残念ながら、彼は長い間麻薬中毒で、若くして亡くなりました。ニューヨークのチェルシーホテルで彼に会い、ロサンゼルスではプライベートで彼を訪問しました。79年にニコは、伝説のウィスキー・ア・ゴーゴーでのコンサートで、ティム・ハーディンに前座での演奏を依頼しました。そしてそれはとても素晴らしい演奏でした。
ケヴィン・コインとも、先に述べたフランスのクレルモン=フェランで行われたフェスティバルで共演しました。でもニコは彼にはあまり興味がなかった。
――ニコさんがお亡くなりになる直前、彼女は1988年3月に来日公演を行いました。彼女は日本公演の思い出を話していましたか?
ウルブリッヒ氏 残念ながら、あまり知りません。ただ、日本では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバーバンドが路上で演奏していた、ということを彼女は話していました。
私にとって、ニコのことを本当にすごいと思う点は(これはジョン・ケイルにも当てはまるのですが)、世界中のあらゆる国に彼女のファンがいる、ということでした。こんなことを達成できたドイツのミュージシャンは、多くないです。
テクノ・ハウスの始祖と再評価されるアシュ・ラ・テンペルで
――74年のアジテーション・フリー解散後、あなたは75年に映画「水晶の揺籠」のサウンドトラックに取り組みました。ニコとマニュエル・ゲッチング(アシュ・ラ・テンペル)も参加しています。現在、ゲッチング氏は「テクノ・ハウスの始祖」と再評価されています。
ウルブリッヒ氏 マニュエルとは12歳のときから知り合いです。同じギターの先生に習っていたのです。私がアジテーション・フリーで演奏、彼がアシュ・ラ・テンペルでプレーしていた時代、「ベルリナー・シューレ(Berliner Schule:当時のベルリン在住ロックミュージシャン一派を指す言葉)」の中心となったビート・スタジオ・ベルリンでよく顔を合わせました。
私たちはいつも互いの音楽に共感していたので共演の機会も多かった。 74年にはアジテーション・フリー解散後フランスに住んでいたのですが、マニュエルの「Inventions for Electric Guitar」を聞いたとき私は興奮してベルリンに戻り彼とリハーサル。私たちは12月6日、パリで初めてのコンサートを行いました。その後、アシュ・ラ・テンペルとして、そして後に「アシュラ」として長年にわたって彼と演奏しています。
当時ニコは映画「水晶の揺籠」の音楽担当者を探していたフランスの映画監督フィリップ・ガレルと一緒に住んでいたので、アシュ・ラ・テンペルが映画に音楽を提供したのは当然の成り行きでした。 80年代には、マニュエルはクラウス・シュルツェへの個人的なプレゼントとして、1時間ほどのレコーディングを行いました。まさに、即興的グルーヴというテーマしか持たない、テクノミュージックの青写真でした。これは後に、マニュエル名義のソロアルバム「E2-E4」としてリリースされました。
75年には、アシュ・ラ・テンペルでこの種の音楽をデュオで演奏しました。ギブソンのギター2本で。マニュエルはビグスビー製アーム付きギブソンSGデラックス、私はギブソンSGスタンダードを演奏。たまにオベーションの12弦ギターも使ったかな。エコーにはルボックスのテープレコーダーを使用しました。当時、速度は2種類しかありませんでした。その機器は後にバリオスピード機能を持ち、エコー時間がコントロール可能にしました。マニュエルはまた、ファルフィッサのコンパクトオルガンを演奏しました。
当時非常に人気があり、特にオルガンサウンドに使用されていたベルリンの電子工学エンジニアによる、いわゆる“コンパクトフェイザー”も持っていました。マニュエルはモーリーのワウワウペダルと、ビッグ・マフのディストーションも使っていました。当時ギタリストにとって究極の選択とされていた、ギターシンセサイザー、ハイフライを私は購入しました。
その後、エルカのキーボード、クリストファー・フランケ(アジテーション・フリーとタンジェリン・ドリームに在籍)からシンセサイザーのEMS Synthi Aを購入しました。ファルフィッサのシンセオーケストラも追加されました。 70年代末、マニュエル・ゲッチングは簡易なシーケンサー(Eco Rhythmus Computer)とARPシンセサイザーを持っていました。デュオ形態では、マニュエルと私は4つの大きく重いファルフィッサ・ボックスを演奏しました。これは同時に私たちのPAとしても機能していました。このような音響技術を使って、アシュラの音楽を創ったのです。
デビッド・ボウイとブライアン・イーノが居たベルリン
――ロックの歴史とベルリンの関係について考えるとき、まず、デビッド・ボウイの 「ベルリン三部作」、77年から79年にかけてのボウイのアルバム、『ロウ』、『英雄夢語り(ヒーローズ)』『ロジャー(間借人)』を忘れることはできません。"Low"と "Heroes"はベルリンのハンザ・スタジオで録音され、ブライアン・イーノ、トニー・ヴィスコンティなどが協業しました。
また、ブライアン・イーノは77年にドイツのバンド「クラスター」と一緒にアルバム(「クラスター&イーノ」)を録音し、多くのドイツのミュージシャン、カンのドラマー、ヤキ・リーベツァイトやクラスターの2人などが彼のアルバム(「ビフォア・アンド・アフター・サイエンス」)で演奏します。当時、イーノやボウイとベルリンで会いましたか?
ウルブリッヒ氏 はい、私たちベルリン市民にとって、ボウイとイーノがベルリンにて素晴らしいレコードを制作し、ここに数年間住んでいたことは素晴らしい事件でした。
同時代、私はニコとベルリンに住んでいましたが、ボウイやイーノには会えませんでした。彼のアパートを偶然訪ねたことがありますが、外出中でした。その後、カーネギーホールの楽屋でデビッド・ボウイと会うことができました。ジョン・ケイルがラジオ局のためのチャリティーイベントを企画し、ボウイがボランティアで参加したのです。ファンは大喜びでした。
クラスターとは、アジテーション・フリー在籍時代、72年のミュンヘンオリンピックで知り合いました。ある校舎で2週間近く一緒に暮らし、友人になりました。彼らのフォルストのスタジオに行ったこともありますよ。
フランスでカンと合同でコンサートしたので、ヤキ・リーベツァイトも知っています。時々コンサートで彼に会いましたが、あまり深い知り合いにはなれなかった。でも、カンのミュージシャン、イルミン・シュミットは特別な人物でした。ベルリンのグロピウス・バウで、2000人の観客を前にトリオでカンが即興演奏したコンサートを、今でも覚えています。彼らはいつもとてもオープンで、新しいことに興味を持っていました。カンは素晴らしいバンドです!
コロナ禍においては、ブライアン・イーノが弟のロジャー・イーノと行った試みが、筆者にとって最も興味深く映った。ロックダウン状況下におけるファンの静かな日常風景を撮影、投稿してもらい、ミュージックビデオを創ろうとする試みだった。
72年のロキシー・ミュージック時代から「ノン・ミュージシャン」と自称し、エリック・サティの「家具としての音楽」という思想を延長した「アンビエントミュージック(環境音楽)」をベルリンでのクラスターとの協業の後、明確に打ち出し、Windows 95の起動音や、ロンドンの空港などで、実際に“気付かれなくても、そこに空気のように、家具のように存在している音楽”を創り続けてきたイーノ。彼の姿勢は半世紀もの間、全くブレないことに、筆者は感動を覚えた。個人的にはアンビエント・コンピューティングの思想は、イーノの姿勢と似たようなものだと思っている。
このイーノの試みについて、ウルブリッヒ氏に聞いたところ、「残念、もっと早く知っていたら、私は絶対に映像を送っていたのに! とにかく、教えてくれてありがとう」との返事。半世紀、音楽家として生きてきたウルブリッヒ氏は、ロックダウン中、IT技術のいいところを実に素直に認め、それを存分に活用しようと試みつつ、音楽活動を続けていた。彼のロックダウン中の試みから学べるものは、非常に多い。
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July 03, 2020 at 07:52AM
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