新型コロナウイルスのパンデミックによって収入や健康、最愛の人までも失った人たちがいる。音楽のコンサートが開催されないことなどとるに足らないと思われるかもしれないが、この喪失が及ぼす精神的な影響は計り知れないのだ──。米国の音楽メディア「Pitchfork」のシニアエディターが、これまで当たり前にあった見知らぬ人と音楽を体験する「小さな奇跡」について考察する。
TEXT BY JAYSON GREENE
TRANSLATION BY GALILEO
IMAGE BY DREW LITOWITZ
バーやクラブ、レストランが閉まり、遊び場からは子どもがいなくなった。網の目のように張り巡らされた路線バスは、からっぽになった。そして握手やハグなど、ささやかな“儀式”が消えてしまった。
わたしたちはそれ以来、誰もが数え切れないほど多くの静かな推測に没頭するようになった。Xがなくなってしまったいま、 Yも消えてしまったら、どんな気持ちになるのだろうか?
いま、世界には追い切れないほどさまざまな喪失が生まれている。なかでも最も大きい喪失は、投げ落とされた鉄球のように広範囲に大きな影響をもたらす。そして、静かに水面下でゆっくりと進行するガス漏れのような喪失の数々を覆い隠してしまうのだ。
ライヴミュージックの“消失”には、この両方が少しずつ含まれている。ミュージシャンにとっては「鉄球」であり、わたしたち観客にとっては「ガス漏れ」なのだ。
わたしたちは生活の糧や健康、さらには最愛の人までも失いつつある。そんないま、コンサートが開催されなくなったことなど、とるに足らない懸念に思えるかもしれない。でも、その喪失が精神に与える影響は計り知れない。
音楽を聴くという「反社会的な行動」
とりわけ都市では、ライヴミュージックは「いつもそこにある」。ノートPCを胸に乗せてソファに身を投げ出す夜も、窓の外を眺めれば、音楽に耳を傾ける人々で数え切れないほどの小さなライヴハウスが埋めつくされていることに安心させられるのだ。
すべての人が家にいることを強いられてライヴミュージックを体験できなくなると、人は自分だけの衝動の世界へと戻ってしまう。心の境界線が住む家のサイズにまで狭められ、自分自身をカルト的な存在にしてしまうのだ。そうなると自分のことは学べるだろうが、他人のことはほとんど何もわからなくなる。
わたしたちの多くにとって、音楽は頭のなかの“噂”のような存在として生きている。思考のなかにある音とほとんど区別できない何かだ。音楽をストリーミングすると、その音は実体化する。そこには潜在的には幻覚のような性質がある。自分の神経系の中だけで起きており、この物質世界には類似するものがないということなのだ。
わたしにとって音楽を聴くことは、多分に反社会的な行動と言える。いま自分がいる部屋で聞こえてくる音に気づいたり、部屋にいる人たちの声に調子を合わせたりせず、レコーディングされた音楽に何時間も耳を傾けている。そして思い切ってコンサートに出かける目的は、いま見ているこの奇妙な“夢”が現実であると確信するためなのだ。この音を生み出している人たちは本当に存在するのだ、と。
コンサートでは、笑みを浮かべる人々や、どういうわけかわたしと同じようにこのコンサートに興奮している会ったこともない人々の姿にいつも困惑してしまう。紙の上ではバカげて見えるかもしれないが、「彼らもまた、この音楽をすべて聴いてきており、ここに招き寄せられたのだ」という現実に圧倒される気がするのだ。
会場内には、そこにいる人たとの間に流れる「見えない電流」のようなものがあるのがわかる。たとえバンドが演奏に集中しておらず、観客が演奏中もしゃべり続けているような、さえないコンサートであってもだ。
そしてこうしたとりとめのない考えすべてが、最終的にある一点に到達する。みんながひとつの空間に立ち、ひじとひじを触れ合わせ、息を呑み、同じ場所を見つめ、同じ現象に立ち会う瞬間だ。それはときに、夢中になっている小説を置いて外に出てみると、登場人物全員が実は本物で町中を歩き回っていることに気づいたときのような効果をもたらす。
見知らぬ人との忘れえぬ体験
これまでコンサートやライヴに行くことで、見知らぬ人々について忘れられないことをいろいろ見聞きしてきた。そのうちのささやかなエピソードを、思いつくままに紹介しよう。
ビッグ・シーフのエイドリアン・レンカーのソロコンサートが、マンハッタンのBowery Ballroomで2018年に開催された。どの曲のときだったか覚えていない(アンコールの「Masterpiece」だったかもしれない)のだが、その曲が始まったときに隣にいた女性が、無意識のうちに静かな叫び声を上げたことをはっきりと覚えている。その叫び声は、彼女が自宅以外ではそう頻繁に発する音ではなかったと思う(社会規範とはそういうものだ)。
それは自己意識から解放され、喜びに満たされた彼女から自発的に発せられた音だった。彼女が声を発したあと、そこに萎縮した感じや決まり悪さはなかった。音楽が用意してくれた空気が、そのすべてを受け入れていたのだ。
生演奏する人の前に立つと、いつも小さな奇跡に遭遇しているような気分になる。かつてレナード・コーエンと同じ空間にいたことがあるが、そこでコーエンは彼のために敷かれたペルシャじゅうたんの上で、芝居気たっぷりに何度も転んでは膝をついてみせた。
犬の首輪を巻いて叫び声をあげるノイズロックのアーティストに、地下室でハグされたこともある。インディーロックバンドのスプーンのやる気のないインストアライヴに行ったとき、別の観客から暴力的に脅されたこともあった。振り向いて彼のほうを見たという理由だった。ブッシュウィックにあるライヴ会場では、3フィート(約0.9m)先で無名のひどいバンドが最悪な演奏をするなか、誰かの濃縮された汗が天井からしたたり落ちてきたこともあった。
ともに旋律に浸る日
信じられない「運命のねじれ」とも思えるこうした出来事において、わたしとほかの人々をそこに招き寄せたのは、レコーディングされた旋律以外の何ものでもなかった。がっかりするようなライヴでさえも、それは「音楽がいかに人々の心のなかで生きているのか」ということへの貴重な教訓を与えてくれたのだ。
いまから8年前、ジェイ・Zの同胞だったビーニー・シーゲルのライヴを観に行ったときのことである。その数日後から2年間の獄中生活を送ることになっていたシーゲルは、疲れた様子で遅れて会場に到着した。集まった少数の熱狂的なファンたちは、結婚式のスピーチをやり遂げられるか不安げな義理の弟に対するかのように、彼に声援を送っていた。
当時、会場で隣にいた女性がひどく心配そうな様子だったので、思わず彼女に声をかけた。彼女がビーニーと同じくフィラデルフィア出身であることがわかると、わたしたちは好きなビーニーのヴァースを言い合った。婚約したばかりだという彼女は、わたしに指輪を見せてくれたりもした。でも、ビーニーが刑務所の悲惨さを歌った「What Ya Life Like」のオープニングのヴァースをラップし始めると、彼女は会話をぶった切って歓喜の声をあげた。
またいつか、そんなことができる日が来る。押し合ったり、ぶつかり合ったりできる日が来る。人でごった返す列に並び、バーテンダーがこちらの目を見てくれるのをじっと待つ日が来るだろう。汗だくで踊るダンス、湿った空気、爆音のギター、わたしたちの体を突き抜け、壁をも貫通するベース音──。
誰もが自宅で隔離された生活を送りながら、パンデミックのスパイラルを見守るいまは、このどれもがとうてい無理な話に思える。だが、きっといつか、もしかしたら数カ月後には起きるかもしれない。
多少なりとも社会的機能が回復してくれば、わたしたちは恐る恐る、ためらいながら姿を表すだろう。おそらく誰かがステージ上でせき払いしてから、この奇妙な感覚について触れるはずだ。そして音楽が流れる。わたしたちは再び、ともに旋律に浸るのだ。
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June 04, 2020 at 04:00PM
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